この空の下

短いお話

Tomorrow never knows

youtu.be

 

明日は明日の風が吹くなんて思って生きていた。

ただ与えられた毎日を繰り返し生きることが生きることと思っていた、あの頃は。

傷つくという言葉を知らなかったし、人を傷つけるなんてことも考えることもなかった。

だから友達の彼女とデートしても全く罪悪感もなかった。

女なんてそんなもんだと思っていたんだ。

退屈な毎日を彩らせる役割にだけ、女はいたんだ。

でも女って勘違いをして、あなたは私だけ愛してねなんて言うからまるでわかっていないんだ女って男のことを。

学校で教えた方がいいんじゃないかって思ってた。

 

NYに仕事で行ったときのことだった。

グリニッジビレッジにカフェダンテといううまいコーヒーを飲ませる店があった。

その店でカプチーノを楽しんでいたときだった。

日本人の女が店に入って来た。

俺の隣の席だけが空いていたから彼女はそこに座った。

見栄えの良い女だった。

NYに長いんだなと思うようなたたずまいだった。

この近くに映画館があって黒澤明の乱がやっているから観に行かないって、女が席に着くなり言った。

こともあろうに、有無も言わさない勢いで、さあ行きましょうって腕を引っ張られるように映画館へ俺は拉致された。

 

チケット代はただみたいなもんだった。

何なら払わないでもよいとまで言われた。

サービスですだって。

営利目的ではない団体が主催しているということだったのかもしれない。

 

女は何の説明もなしに一ドル札を窓口で払ってすたすたと中へ入って行った。

座席はフラットですり鉢型になっていないから後ろの席は観にくい。

前の席の奴が、観えますかって気を使っていたから大丈夫問題はないと伝えた。

 

俺たちは自己紹介もなく隣同士に座って黒澤の映画を観た。

ここNYでは同じ日本人と見たら郷土愛のようなものが作用して特別な事がない限り壁なくふるまうことがしきたりなのかと思わせるほど女はくつろいでいた。

それならこっちから自己紹介するのも面倒だからこの流れに流されてみることとして映画を楽しもうと思い、仲代達也よりもそれは勝新が良いと思うけれど、勝新は口出ししすぎるから黒澤に嫌われてしまったんだな、だから仲代でこの役は良いんだと自分に言い聞かせたりした。

隣の女はこの映画を観て何を考えているんだろう。

視線をそらすこともなくスクリーンを見つめ続けていた。

映画が終わり、外に出ると陽はどっぷり落ちて町はすっかり夜になっていた。

誘惑するのには彼女をあまりにも知らなさ過ぎたし、飯でもと思ったけれど、なんとなく気が乗らなかった。

そんなこっちの迷いをよそに女は名刺を差し出した。

結構な会社の偉い人という肩書だった。

仕方なく俺も名刺を渡した。

女は何か言いかけたけれどなにも言わないことを選んだように言葉を飲み込んだ。

彼女のためにタクシーを拾うと、あなた私のこと完全に忘れているのね、となんというか、失望でもなく恨みでもなく諦めでもなく労りでもなく、表現しようもない表情が彼女の顔に浮かんでいた。その時ほど頭を使ったことはないくらい俺はいままでの女性とのシーンを片っ端から頭に浮かべてみたけれどどうしても彼女が出てこない俺の頭には。きっと人違いだよ、と自分に言い聞かせるように訴えた。

 

今こうして東京のオフィスに一人残って、ビールを飲んでいると、いろいろなことが

思い出された。そうだあの子だったんだ。あんなにおとなしかった子が今では億単位の年収をもらうようなエグゼクティブになっていようとは。わからないのは当たり前だと思った。貫禄もついていたし、着ている服だってそれ相応のブランドだったと思うし

あの頃のあの子はかわいいピンクのワンピースを着ているような子だったんだから。

いかにもお嬢様という控えめな子だった。先輩にあこがれているんですなんて言われたって何をどうしたらいいのかなんて俺にはさっぱりわからなかった。明らかに何かを期待しているような粒らな澄んだ瞳をいとおしく一瞬見えたけれど、怖かったんだ。何がって、結局は嫌われてしまうことが。それをうまく言えなくて、ありったけの勇気を振り絞って告白してきたあの子に対して、興味ないんだよな、って吐くようにつぶやいて俺は立ち去ったということだった。

それっきりすっかり忘れていた。随分ひどい人と陰で言われ続けていたみたいだけど、むしろ俺は人助けをしたまでだと思っていたから、一切気にしなかった。俺と付き合ったって彼女が幸せになるはずもなかったから。

彼女は俺だと知っていて映画に誘ったのかそれとも名刺を見るまで俺だってわからなかったのか。俺は彼女の名刺を見ても、彼女の名前さえ憶えていなかった。ひどい話だけど。彼女は既婚者だろうか、それとも独身なのかバツイチなのかと、この期に及んでどういうわけか彼女のことが気になって気になって仕方がなかった。NYへ飛んでいこうか、夜20時の便ならNYには夜の21時には着くだろうなんて考えたりして。